常識の壊し方│意志を貫き成功をつかむ方法

子供のころ、大きな夢や目標を立てることは歓迎される傾向にあった。

金メダルを取りたい、総理大臣になりたい、と公言するとそれを聞いた周りの大人は喜んだ。

しかし、その大人になった我々が同じことを言ったら周囲はどんな反応を示すだろう。

子供は成長に伴い社会的常識を身に付ける。

常識とは社会で共有する価値観やルールであり、社会生活上とても大切なものだ。

大人には常識を身に付けていることが求められる。

 

しかし、非常識な大人は存在する。

新しい価値や手法を創る者、無謀と思える挑戦をする者、まったく新しい発想をする者。

一体彼らは凡人と何が違うのだろうか。

そして凡人は彼らのようになれるのだろうか。

 

常識にとらわれた人々

社会には常識にとらわれている人が多い。

常識に従い、常識的な発想で、常識的に行動する。

常識に従うことは模範的であり、目指すべき姿である。

 

こうして常識にとらわれていると、全て常識の範囲内で考え、行動するようになる。

しかし、普通の価値観の世界にいては、普通の目標しか立てられない。

常識の束縛が強いと、自由な発想ができない。

このため、せっかくの新鮮なアイデアを実践できなかったり、夢を実現できずにあきらめの人生を送っている。

 

時には非常識な選択も大切だ。

常識から外れた考えや行動も必要になる場合が必ず出てくる。

常識的、伝統的なやり方ではどうしても突破できない課題は人生の様々な場面で直面する。

その難題を突破するためには、非常識な行動や異常な考え方も大切なのだ。

普通の行動では普通の目標しか達成できない。

新しい発想を非常識だと排除し、その難題の解決を、あるいは人生を妥協していないだろうか。

 

自分の意志を貫く

常識に縛られていると、常識的な人の声に耳を傾けてしまい、たちまち諦めてしまう。

常識の力は圧倒的だ。つい目がくらんでしまう。

だが、やろうと思ったことは非常識なものであっても実現に向けて努力するべきだ。

常識に負けるな。いつでも自分の意志が最優先だ。

ここで妥協してしまえば正しい目標設定ができない。

本当に耳を傾けるべきは、外部ではなく内部だ。

自分の声に素直になろう。

 

・常識とは

我々は大人になるにつれて社会的常識を身に付ける。

そのおかげで円滑な集団生活を送ることができる。

見ず知らずの人とも人間関係を早期に構築できるのは、こうした社会的常識を共有、実践できているからだ。

社会において常識の果たす役割は非常に大きい。

 

しかし、常識とは法律と違う。絶対の拘束力を持つわけではない。

常識は厳格なルールのようで実は全くあいまいな概念だ。

公序良俗に反しない限り、我々の行動を制限するものではない。

 

・誰の常識なのか

常識とはよく聞くのだが、一体それは誰の常識なのだろうか。

自分の持つ常識と相手の持つ常識が微妙に異なっていることを知っておくべきだ。

なぜなら人それぞれの人生を生き、その人なりの解釈を持っている。

そこには常識も含まれる。

だから常識を押し付けることは無理があり、常識を押し付けられても真に受ける必要も無い。

 

周囲から常識の名においてあなたの進路を妨害してきたら、こう言え。

「それは誰の常識ですか」と。

 

なぜ常識にとらわれてしまうのか

なぜこれほど多くの人が常識に縛られてしまうのだろうか。

また夢を語る者、突飛なアイデアを提唱する者に対し、応援ではなく妨害するのだろうか。

 

・常識の引力

各個人は、それぞれ成長とともに築き上げた常識という世界観の中で生きている。

常識的であること、常識の範囲内に収まることを求められ社会性を身に付ける。

このため、常識の範囲から外れることに恐怖や不安を感じる。

 

言わば、常識から外れるということは見知らぬ土地に足を踏み入れたかのようだ。

見知らぬ土地は誰にとっても不安になる。トラブルに巻き込まれてしまったら対処できないからだ。

だから、早く安心できる場所に戻りたくなる。

どこに?もちろん常識の世界に。

それまでずっと暮らしてきた住み慣れた場所、それが常識の世界なのである。

 

・善良な敵

新しい発想やアプローチをとても親切に妨害する者がいる。

これらの新しいものに対し、非常識だと非難または脅迫を行う者たちだ。

彼らは言葉使いも巧みだ。お前のためを思って言っている、悪いことは言わないから止めておけ、そんなことして責任取れんの、と。

彼らの自信はどこから来るのだろうか。

それは常識の持つ絶対的な権力に依存しているからだ。

 

なぜ彼らは社会の常識を我々に押し付けて、進路を妨害するのだろうか。

理由はいくつか考えられる。

 

・自分の立場が苦しくなる。

人間は、自分の立場や存在意義を危うくするものに対してはその妨害の手段を選ばない。

常識とかなんとか言っているが、本当は理由なんて何でもいいのだ。

つまり、妨害するための妨害なのだ。嫉妬かもしれない。

誰かが提唱する新しい手法が実施されたり目標が達成されると、その発想を持てなかった自分に劣等感を持つ。

これを予感しているからこそ妨害してしまうのだ。

●参考リンク:無自覚な嘘│「判断」は「理由」に基づいていない

 

・自分の意見がない

自分の意見を持たない人は、「常識と非常識」の関係を「善と悪」の関係だと勘違いしている。

非常識な行いは彼らにとって悪であり、成敗するべき対象だと認定される。

そんな短絡的な発想しかできない人々は、正義の味方気取りでご親切に妨害する。

 

常識の壊し方

常識の力や常識的な人々の妨害に負けず、自分の意志を通すにはどうすればいいのだろうか。

 

・常識が壊れるとき

自分の意見を押し通そうとするとき常識という制約が障害となる場合がある。

この時、我々は選択を迫られる。

常識を守るのか、それとも自分の意志を通すのか。

この二者択一の選択に迫られ、自分の意志を通すときに常識が壊れるのだ。

 

常識を壊すことができるのは、自分の意志が制約に負けない強いものであった時だ。

自分が何を成したいのか、何を作りたいのか、そういう内面から来る衝動が無ければならない。

 

・常識の壊し方

常識を壊すことを目的としていてはダメだ。

たまに常識を壊すことを目的とした作品や暴言で恥をかく発信者を見かける。

常識を壊す目的が違う。

奇をてらうための常識の破壊は目的をはき違えている。

 

常識を壊せる人は、突破口を探すためにあらゆる研究をしつくした人である。

研究しつくしたからこそ、見えている風景、モノの見え方があり、

その境地にまで行きつくと、常識なんて壁はもはや透明なアクリルの板くらいにしか見えていない。

 

そこで常識を押し付けられても、うっとうしいだけである。

常識の名のもとに信念を曲げることもないだろう。

常識が常識に見えなくなるくらい研究すること。

その境地に至るまでは全身全霊で打ち込むことだ。

 

非常識を応援してくれる人

社会の多数派を占める常識依存症の者たちは、常識=安全という神話を信じている。

だから、常識にとらわれない考えを持つ者に対して、反乱分子と認識し、足を引っ張る。

 

しかし信じられないことに、非常識な発想やリスクのある行動を応援してくれる人が稀にいる。

新しい挑戦をしようとする者が今後の人生を共に歩むべきなのは、こういう人たちだ。

彼らはすでに常識を壊したことのある人だ。

常識を壊したことのある人は、常識を壊したい人の気持ちや状況をよく理解している。

だから、情熱をもった発信者の言葉に共感できる。

 

もうひとつ特徴がある。

それは彼ら自身、自立した大人だからだ。

自立とは自分も他人も同じくらい尊重できる資質を持った状態を言う。

非常識な発信者を応援できるということは、お互いを自立した人間、また選択に責任を持てる人間だと認めて信頼しているからだ。

自らが常識と戦い、部下や同僚の非常識なアイデアに耳を傾けることができる大人になろう。