自分中心思考│思考の原点には必ず「自分」が置かれる

自己中心的という言葉は、一般的にはグループの調和を乱す厄介者というイメージがある。

実際に教育や仕事の現場では、他者との調和の重要性を教え込まれる。

その教育の結果、一般的には、自分の意見を押し通すことより、他者のために尽くすことを善とする風潮がある。

しかし、現実的に自己中心的でない人はいるのだろうか。

 

自己中心的とは

各個人が持つ世界観は、その人のそれまでの学習や経験の蓄積とそれに裏打ちされた想像力によって作られている。

自分の思考が自分の脳で行われるという制約上、逃れられない現実として、どんな考えや他者への思いやりも、その人の蓄積から生まれた想像からしか、生まれない。

つまり、その人が考えたことしか、言葉にせよ、態度にせよ、表現することができない。

自分が常に根底にあると言うことができ、これは自己中心的と言わざるを得ないのだが、

一般的に言われる自己中心的かどうかという判断は、考え方や姿勢が一般的に見た場合の自分の存在をどれだけ優先度を低くしているか、という観点によるものである。

 

自分以外のものへの認識

人は実体験したものでしか、理解できない。それ以外は想像するしかない。

相手の立場に考えるとは言っても、それは自分の起点とした想像の範囲を超えない。

自分以外のものはすべて、自分の想像でしかない。

 

例えば、春になると地上にはたくさんの花が咲き、その蜜や花粉を集めようとたくさんの昆虫も活動を始める。草花はとてもカラフルで、春の陽気の中で花から花へと移動する昆虫の仕事熱心な姿は、一見楽しそうであり、見ているこちらも気分が穏やかになるものだ。

しかし実際には、これらの昆虫には色彩感覚はなく、モノクロの世界に生きている。

楽しそうに見えていた、色とりどりの花から花への移動は昆虫にとってただの作業工程であり、春の陽気もただ単に活動しやすくなった気温というだけである。

春のぽかぽか陽気の中で咲き乱れる花々と、飛び回る昆虫を見て気分がよくなるのは、人間だけである。

 

 

他者とは

自分の想像力でしか、相手の立場を推測できない。という限界がある。

他者という存在の認識は、自分の想像の範囲を超えることができない。

他者とは自分の投影に他ならない。

そして、他者への認識が、他者への接し方に表れている。

その人の発する言語、他者への態度、物事に対する姿勢、すべてがその人そのものである。

 

例えば、寛大な人は、他者の存在も寛大なはずだという前提で他者を認識し、接する。

自分が他者に対し寛大な分、相手も自分に対して寛大な態度を要求する。

好戦的な人は、他者の存在も好戦的であるという前提で他者を認識し、接する。

自分が他者に対して好戦的な分、相手も自分に対する好戦的な姿勢に警戒する。

 

人生においてたくさんの人と接することになるが、そのたくさんの他者を前にした時、その他者への認識の前提は自分の投影である。

他者と接しているように見えてそこにいるのは自分だ。

これは言い換えると自分と他者の間にマジックミラーがはさんであるようなものだ。

人生とは、全面がマジックミラーに囲まれた閉じられた世界なのである。

 

他者とのコミュニケーション

相手の気持ちを想像するとき、それはどんながんばり方をしても、それは自分の想像でしかない。

実際には、目の前にいる他者は、自分とは全く別の人格を持つ人間であるため、自分の想像と相手の気持ちが、100%一致しているとは限らない。

社会生活上のコミュニケーションとは、それくらい不確定要素が多く、このような不正確さがあっても相手の許容があってかろうじて成り立っている、とても脆弱なものだ。

このような不正確さのため、コミュニケーションエラーは必ず発生しており、それが表面化するかどうかは、認識のズレの程度問題である。

 

価値観の押し付け

他者とは自分の投影に過ぎないのだが、これによって価値観の押し付けが発生してしまう。

それが善意に満ちたアドバイスだとしても、アドバイスされる側にとって最適解とは限らない。

俺ができたから、お前もできる。

こういう場合は、○○をするべきだ。

勉強になるからこの本を読め。

これらの有難いお言葉は、どんなに慈愛と善意に満ちた愛のあるアドバイスや指摘だとしても、アドバイスする側の全くの個人的な経験から来る、個人的なアドバイスに過ぎず、アドバイスされる側にとっての最適解とは限らない。

このようなアドバイスされる側の個性を無視した押しつけは、場合によってはされる側にとって毒にもなるため、アドバイスする側は慎重な姿勢が必要である。

つまり、好意の押し付け、有難迷惑、特に過度な場合は、パワハラやストーカー行為として認識されてしまう可能性も秘めている。

 

他者優先思考の人々

とは言え、かたくなに自分よりも他者の都合を優先して生きている人もいる。

自分がどうしたいかよりも、他者からどう見られるか、と優先して考えて、行動している人がいる。

日本人は他国に比べて、自分の都合よりも調和を重んじる傾向があることが知られている。

この調和を重んじる姿勢は、たしかに模範的かもしれないが、この思想に過度に染まり切った人の中には、人生そのものを放棄してしまっている人もいる。

いくら思考が自己中心的なものであるとはいえ、強烈な洗脳が行われれば、思考のベースは他者または他者という概念が中心になってしまうのだ。

 

過度な他者優先思考の人は、いつも思考の中心に自分を置かない。

誰か(親や会社)のために行動するという軸がしっかりと固定されてしまった結果、その人の行動すべては自分のためではなく、例えば親や会社にとって迷惑をかけないための行動で埋め尽くされ、そのような人生を送っている場合がある。

このような人々は、自分がどうするべきか、どうしたいのかを見失っている。

それまで他者優先で生きてきたものにとって、お前はどうしたいのかと聞かれても、

考えたことのない分野に関する質問をぶつけられることになるため、パニックを起こしてしまう。

しかし、これほど自分を見失った人生を送っていたとしても、その生き方は本人にとっては正義を貫く生き方であるため、本人は楽しくなくても正義を貫く満足感で満たされている。

こうして楽しくない人生を送っていることに無自覚なままである。

●参考リンク:自分軸で生きる│人生を選択する自由と責任を持つ生き方

 

他者を思いやるには

他者への配慮は必要だが、どんなに気を使ってもそれは限定的でしかない。

相手に配慮できるようになりたいなら、できるだけ多くの経験を積み、できるだけたくさんの人の立場というものを身をもって理解するようにすれば、相手の立場に本当の意味で立てるようになるだろう。

そしてその経験の豊かさは、まさに懐の豊かさとなるのだ。