足るを知る

我々は、欠けている部分に目が行きがちである。

課題に直面したとき、その解決のため不足している部分を改善しようとする。

また、ミスや失敗を犯し反省するとき、自分の至らなかった点に注目する。

このように何かの命題に対する解決の姿勢は、ネガティブファクターの補填であることが多い。

相対的に、すでにあるもの、持っているものの良い面に着目したり、評価する機会が少なくなる。

このような「ないものねだり」のスタンスでは、満足できる日は永遠に来ず、常に不満を抱えて生きていくことになる。これでは人生は息苦しいはずだ。

我々は、足るを知る機会を失っている。

自分が何を持っているのかを振り返る機会が少なければ、現状に満足する要素に出会う機会に恵まれず、息苦しい世界に閉じ込められたままだ。

 

結果主義という単純で残酷な判断基準

結果主義は、その途中の努力を評価しない。

成功や失敗という結果に注目しすぎて、その途中にあるものの扱いがあまりにも無下にされている。

この結果、足るを知る機会が失われている。

 

・教育現場

教育の現場では、成績上位や各種大会での優勝を目標にし、この実現をした時にのみ、それまでの努力が認められ、称賛される。

つまり、成績が優秀でなかったものは、努力が足りなかったという単純な理屈に基づく。

 

・家庭教育

もしかしたら各家庭の教育もそうなっていないだろうか。

一位以外認めない。優勝以外認めない。東大以外認めない。

子供に対して、そのような厳しすぎる教育になっていないだろうか。

その子の個性を見極めたうえでの適切な指導になっているのかどうか、怪しい例は時々聞かれる。

 

教育とはトップになることを教えることなのだろうか。

その実現に向けた努力の過程で身に付けた、忍耐力や努力といった経験を、どのように人生に生かしていくか、が大事なのだが、結果主義的視点から見ると、その過程にある中身がすっぽり抜けてしまう。

このような環境で育った子供たちは、そのような視点でしかものを判断できずにそのまま大人になる。

つまり、結果を残したものが努力した者であり、結果を残せなかったものは、努力が足りなかったものだ、というひどく単純なものの見方でその後の人生を生きていくことになる。

これは自分だけではなく、他人に対しても同様な評価を下すことになる。

 

結果主義がもたらす苦しみ

・自分の努力をなかったことにしてしまう

望ましくない結果を悔やむ、ミスを反省する、不得意分野を改善したいと考える。

このような向上心はとても大事なのだが、その向上心とは、結果主義という狭い価値観に基づいたもの。これが苦しみを生むのである。

 いい結果を残したもの=努力した者、という単純な構判断基準で生きていると、自分がミスをしたり望まない結果に終わったとき、それまでの努力を全部、否定してしまうことになる。

「怠けもの」というレッテルを張る。

全く自分の努力を認めることができない。無駄だったという思い込み。

このような視点、判断基準は、価値の認め方の柔軟性に欠けている。

いつまでも自分にも他人にも厳しいままである。

 

・諦められず、実力を認められない。努力が足りなかったと思いたい

苦しみのもう一つの原因は、努力が足りなかったと思いたいという気持ちがある場合だ。

全力を尽くしても手に入らなかった、という事実を受け入れられないために、努力が足りなかったということにしておきたいという思い。

しかしその苦しみは、自分の努力を認められない、自分の至らない点を認めたくない、知りたくないと目をそむき続けた結果なのである。

いつか受け入れなければならない、いつか叶うと信じていた夢が実現しないという悪夢のような現実がある。我々は夢の国の住人ではない。

 

このようにときどき我々は、猛烈な劣等感に悩み苦しむ。

しかし、本当にあなたは怠けていたのだろうか。努力は足りなかったのだろうか。

自分の実力は悲劇的なほど残念なものなのだろうか。

違うはずだ。

あなたは努力しているし、それは称賛に値し、欠点があってもそれは一面的な評価にすぎず、多面的に見ればそれは長所でもある。

このような考え方になっていれば、ずいぶんと気が楽になるものだ。

無いところを探すのではなく、あるものを探すという視点はどのようにすれば身につくようになるのだろうか。

 

ないものねだりの終わり

「足るを知る」とは、欠点だらけの自分に我慢することではない。

自分を認める、受け入れる、妥協する、あきらめるといった感覚である。

「現状に満足する」という肩の力が抜けた考え方は、それまで見てきた世界を変えていく。

今まで自分の不足な点に行きがちだった視点が、得意な部分に目が行くようになり、厳しい世界観が優しい世界観に変わっていく。

自分や他人や社会の足らない部分に目くじらを立て、失敗が許されない緊張に満ちた世界から、自分や他人や社会のいい部分に目が行き、「ま、これでいっか」と満足できる世界への移行は、いい意味での諦めが、そうさせる。

無いものねだりではなく、あるもの探しという視点は、必要以上に狭苦しい価値観を緩和する。

 

「ないものねだり」から、「あるもの探し」へ

しかし、そこに至るまでには、やはり全力で自分と戦わなければならない。

全てを出し尽くし、それでもわずかに残った希望に寄り添って生きていこうと思ったとき、そのあきらめが手に入る。

その瞬間が足るを知った瞬間である。

そこにいたれないのは、まだまだ全力で自分と戦いきれていないということだ。

まだまだ戦えるということだ。

まだまだあきらめるには早いということだ。

人生はこの苦しみの連続である。

そして自分の限界を知り、自分の輪郭を認識していく。これも成長の一つである。

 

窮地に追い込まれた経験は人を強くする。

足りないからできないという言い訳ができない状況は、あるもので何とかしなければならない。

そこでどう振る舞うのか。

問題に直面した場合、解決にはアプローチはひとつしかない。

事実上ある部分をやりくりして、無い部分を補う、または開発しそれで乗り切る。

こうした機会は、社会生活を始めてから恵まれる。

このような試練と戦う経験が多いほど、成長できる機会に恵まれる。

こうした機会に恵まれなかったものであるほど夢を見てそれにとらわれ、とらわれるあまり、苦しい思いをし続ける。

 

まとめ

結果主義による評価は残酷だ。

良い結果を提示できなければ評価されないこの社会では、自他の評価はそこにあったはずの前向きな姿勢や、美しいはずの努力する姿勢を否定されてしまう。

こうした結果までの過程を無下に扱ってばかりいては、自分が持っている良い点を見落としてしまう。

この繰り返す自己否定のため、自分を見失い、苦しみ続ける人が多い。

あったはずのものがなかったことにされてしまえば、誰だって落ち込んでしまう。

しかし、現実にはどんな結果だったにせよ、そこに至る過程において各個人は努力を続けていた。

目標に向かって努力する姿は、成功者にも共通する称賛されるべき姿勢ではないか。

今一度、自分を振り返り、見過ごしてきた自分のいいところを大切にして生きていこう。