人類は今や地球上の様々な場所に適応し、各所にコミュニティを形成している。
科学技術を発展させた人類は、海の底から雲の上にまで活動の範囲を広げ、今や宇宙にまでその範囲を広げようとしている。
しかし、そのすべてがスムーズにできたわけではない。
挑戦と失敗を繰り返し、その蓄積が次なる一歩を実現させてきた。
言わば、人類の歴史とは、失敗の歴史でもあるのだ。
人類の歴史 集団生活の始まり
人類は他の動物と違い、知性を持ち、集団生活を可能にした。
この集団生活においては、男性が食料調達、女性は子育て、という風に役割が分担され、これが生存率を高めることに繋がった。
いつの間にか始まった集団生活と役割の分担は、類人猿の時代から続く長い歴史の中で作られた人類の最初のシステムであった。
こうした村社会が以後の文明社会の基礎となる。
しかし、社会の維持には問題点がある。
集団で生活を送るには、役割を果たすこととルールを守る義務が発生する。
例えば、食料の調達は、全員が飢えない様に一定量を確保しなければならない。
この実現のためには、狩猟や農業を組織的に行わなければならず、指揮者の指示に従わなければならない。
また、ルールが無く全員が欲望のままに生きていれば、社会は破たんしてしまう。
こうしてルールを見張る役割も生まれた。
こうして村社会には、組織を指揮する者、ルールを監視する者が必要になった。
その役割を担ったのが村長である。
こうして誰に教えられたわけでもない村長以下トップダウンの政治形態は、現代においてもなお引き継がれているのである。
人類の歴史と宗教
自然に対する無力感
人類は、自然現象に対してあまりに無力であり、自然に依存して生きている。
食料の調達だけでなく、衣服、住居の材料も自然からの借り物である。
こうして自然に対する感謝の気持ちがある一方で、自然災害に見舞われることもあり、自然への気持ちは感謝と畏れと無力感がミックスされたものだ。
神の存在
その無力感に合理性を持たせるために生まれた概念が、神という存在である。
人間にとって自然の猛威に犠牲になったり、不条理な結末になることは納得できるものではない。
しかし、神の意志によるものとしてしまえば、それ以上の追求ができず納得せざるを得ない。
こうして人類の不条理に対する不満を抑えるための知恵として、神が生み出された。
要するに、気持ちの整理がつかないことに対する、言わば強引な決着の付け方として都合よく解釈しようとした結果、神が作られたのである。
宗教の始まり
こうして人類にとって理解できないことを神のせいにしてまとめられた世界観が宗教となった。
旧約聖書も古事記も名もない民族の宗教にもこうした傾向がある。
例えば人類を作ったのは神だということになっている。当時は進化論がなかったからだ。
また、宗教には行動規範も同時に兼ねることになった。
人間は様々な欲望や衝動を抱えて生きているが、円満な社会生活を送るためには自制しなければならない。
宗教に定められた行動規範は、この点において貢献が大きい。
例えばキリスト教に伝わる七つの大罪という概念は人間の欲望をわかりやすくまとめたものである。
同時に神への信仰を強めることを促し、神への信仰は社会の維持につながっているのである。
こうした宗教は世界中に無数に生まれ消えていった。
それなら、現代に伝わる宗教、特に三大宗教は素晴らしい教えなのだろうか。
いや、現存する宗教は、優秀だったわけではなく、その教え、ルール、風習がその土地に最も適したものだったに過ぎない。
例えば、砂漠地方では一夫多妻制を認めている。
これは子孫を残すために必要な栄養素(亜鉛)が少ない地方において、子孫を残す確率を上げたからこそ今に伝わっているのである。
つまり宗教とは、その土地において最適化された行動様式を、神話という後付けの作り話で裏付けした、行動規範集というわけである。
人類の歴史と政治
人類の集団生活な始まりとともに政治の歴史も始まった。
集団をどうまとめるかという課題は、現代に続く難題である。
はじめの村社会においては、信用を多く集めた者がトップに立ち、全員を統制する形であった。
しかし、社会の規模が大きくなり、文明レベルになると政治形態は複雑化した。
○○制や○○主義といったシステムは、被支配者の幸福の最大化の試みとして、今なお人類は模索中であり、正解を見いだせていない。
文化の発展は政治の形態にも影響を与え、極端な圧政よりも一人一人の権利を尊重しようという民主主義が、先進国に多い傾向はある。
人類は政治の完成形を目指しているが、人間自身が未完の存在であるため、それが達成される日は来ない。誰かが必ず犠牲になる形態は続くだろう。
人類の歴史と科学
人類の「よりよい生活にしたい」という思いは科学を発展させ、たくさんのことを可能にした。
近代においては100年前の夢は実現して普及し、10年前の理想が現実になっている。今日の不可能は明日には可能になっている。
科学以前
人間には欲求があり、欲求が向上心を生む。
信仰のための神殿を立派にしよう、装飾をきれいにしよう、壊れない家にしよう、もっと収穫をふやしたい…
このような欲求が、住居や神殿の建築技術、農業を発展させた。
科学以前の時代の技術の向上というものは、偶然に発生したものに過ぎない。
「繰り返し行う作業の中で偶然発生したミスが意外にも効果が高かった」という経験の積み重ねが技術を向上させてきたにすぎない。
つまり、まぐれ当たりなのだが、この点では生物の進化によく似ている。
科学の発展
偶然に頼らず論理に基づいたアプローチができるようになってから、科学の発展は加速した。
前例に基づき筋道を立て改良を繰り返す姿勢が、のちの科学的アプローチの基礎になった。
このような試みは、すでにメソポタミア文明から見つけることができる。
この論理に基づく改善の繰り返しは、今もなお続けられる手法である。
偶然に頼らない論理的アプローチが、現在の発展を支えたのである。
人類の歴史と芸術
人間には感情があり、また感動を伝えたいという欲求がある。
なにかの造形に美を感じたり、これを模して制作したり、歌や踊りで気分が高揚したり、言葉を使って相手に気持ちを伝えたり、といった活動そのものが芸術である。
これらは気分を変化させる作用がある。
言葉にできない、または言葉にする必要のない感動をできるだけ正確に伝えようとする試みも、人類の歴史で様々な形で行われた。
科学と同様に、芸術は前例を改善または発展させる形で進化し、その表現の技術の向上や、新しい表現方法の発見のたびに、表現の幅を広げていった。
人生は、常に情報の受信と発信である。
そして、情報の発信は必ずその人の人生に裏付けされた形で表現される。
つまり、生きること自体が芸術なのである。
まとめ
人類の歴史は、トライアンドエラーの連続であった。
その繰り返しの中で、経験的に最適化されていくその様は、生物の進化によく似ている。
人類の文化は進化してきたのである。
しかし、知能の高い人間は、前例を基礎として発展させていくという、偶然に頼らない手法を発見し、この時から文化の進化は加速した。一番わかりやすい例は科学である。
人類の文化はさらに進化を続けていく。
しかしそれを支えているのはたくさんの失敗であることを忘れてはならない。