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人生における判断基準の正体

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各個人は人生経験に基づいた独自のポリシーに沿って日々、活動している。

そしてこのポリシーは、過去に誰かに指導されたり、社会経験から学習した教訓によって構築されている。

つまり、現在、自分が持つ意見や主張、人生の選択の基準や善悪の判断に至るまで、そのすべてのルーツは過去の経験がもとになっている。

言い換えると、過去に縛られて生きている、と言うこともできる。

これではまるで、過去という材料で組み立てられた機械のようだ。

はたして、本当の自分の意見というものは、あるのだろうか。

自分の意見を持つことはできないのだろうか。

 

絶対的で揺るがない価値観

各個人の持つポリシーは、各個人の人生経験に基づく。

その判断基準は過去の経験によることが多く、それがその後の生き方に影響する。

 

努力家は、努力することを美徳とし、目標の達成には現在の苦労も、長期的観点からみて報われる日が来ることを信じることができる。

または、かつてそのように努力し続けた結果に、目標達成を実現した経験を誇りにして、これを胸に刻み、日々の努力を怠らないのかもしれない。

楽観論者は、悲観的なものの見方で心を痛め、リスクに備えるよりも、明るい未来に注目し続けることで活動的になれることを知っている。

または、そのような人に出会ったり、そのような姿勢で課題を解決することができた経験から、毎日明るく日々を過ごしているのかもしれない。

 

個人持つ活動のポリシーを持つようになった経緯は、さまざまである。

しかし、その経緯が強烈なものほど、その教訓の人生への支配力は大きい。

例えば、甲子園出場を目指し、暴力的、虐待的な指導環境の中でも忍耐と努力を重ね、目標を実現できた人は、どんな逆境も努力と忍耐で乗り切れることが可能であるという教訓を得るだろう。

その強烈な教訓は、その後の人生に影響を与える。

その後の人生で直面する課題には、努力と忍耐でこれらの苦難を乗り越えようとするだろう。

この生き方、壁への立ち向かう姿勢は、個性と言われるものだ。

 

その人が教訓を得るためにした努力が大きいものほど、誇りと自信をもち絶対的な主張となる。

場合によっては、このような成功体験から得た教訓を、他者に押し付けようとする場合がある。

つまり、上記の甲子園児の場合、どんな苦境も努力で為せば成る、と信じていれば、いつか社会に出て、部下を持った時にこの努力する姿勢を押し付けてしまう可能性がある。

部下の個性を無視したこの押しつけがましいお説教は、部下からの信用を無くすだろう。

なぜなら部下は高校球児でもないし、そもそも異なる個性や考え方をもつ人間だからだ。

 

もうひとつ、同じように強烈な価値観が刷り込まれるケースがある。

それは幼少時の親からの教育である。

生まれたばかりの子供にとって親は、生命維持装置である。

この親をうまく使う、つまりご機嫌を取り続けなければ、衣食住すべての環境を失う。

だから幼い時ほど親の意見に迎合する傾向がある。

親から教えられる最も基礎的な教育は、善悪の判断、正義と不正義の区別だ。

子供は親の世話を受けながら、必死に親の意見に迎合しようと努力している。

このため、親の価値観をそっくり真似するようになる。

こうして生命維持と引き換えに手に入れた、親と同じ価値観は、その後の人生に多大な影響を与える。

場合によっては、自分のための人生ではなく、親のための人生を歩んでいる(ようにしか見えない)人もいるほどだ。

このように、多大な努力の末に手に入れた教訓や、小さいころから親から刷り込まれる価値観は、その人の人生の根幹を成す。

 

無知の知

ときどき自分の得た教訓やポリシーといった価値観を押し付ける人がいる。

しかし現実には、世の中に絶対的な価値観はない。

基本的な善悪の判断や、人としてあるべき姿はあるだろうが、一万年間全人類に当てはめることはできない。

そして長い人類の歴史の中でこの一瞬だけを切り取ってみても、この地球上に74億2418万5673人の人間が生きており、それぞれがさまざまな状況を抱えている。

どんなに絶対的に感じられるジャッジの基準も、必ず漏れるケースがある。

 

ましてや、個人が得た教訓や一人の親の価値観は、自分の人生だけでなくさらにそれを他人に押し付けることが許されるほど、立派なものではない。

つまり、個人が持つ教訓は個人で管理するべきであり、それを他者に押し付けることが許されるのは相手の個性を見極め、救済が必要な場合だけだ。

同時にどんなに絶対的に感じられる価値観も、全員に当てはまるわけではないことを自覚すべきである。

そして当てはまらないのは、自分かもしれない。

そのような疑問をもったことはありませんか。

 

価値観の絶対性に疑問を持てない理由

すべての人の意見や主張は、結局はその人の根本にある、善悪の判断、正義または不正義、好き嫌いといった基準に基づいた結論が先にあり、これらの論理的帰結、擁護、言い訳としての意見がその人の主張になっていると感じられる。

しかし、その根幹、結論こそが刷り込まれた価値観であり、それを擁護する後付けの理論は、個人の意見というより、穴埋め問題のようなものだ。

例えば、新聞や雑誌、テレビのコメンテーターの主張は、その個人の意見というより、好き嫌いの結論が先にあり、後付けの意見がその人の主張のように聞こえてしまう。

つまり好きなものには擁護するような意見をし、嫌いなものには切り捨てるような言い方をしている。

そしてそこには本当の自分の意見は存在していない。

結論は自分の価値観で決めたものではないし、そこに向かう後付けの作り話も自分の価値観を表現する作業でしかないからだ。

 

これらはすべてとても自然に行われ、無意識に行われるため、通常は認識できない。

このことに気付くことは難しい。

誰でも自分のアイデンティティを疑うことは困難だ。

そこに疑問を持つことに考えが及ばないからである。

正義を守って生きてきたものにとって、その正義を疑うことは、これまでの人生の判断基準全てを疑うことになる。実際、これを疑うとき人はパニックになる。

 

完全オリジナルの自分の意見

さて、自分の意見はどこにあるのだろうか。

自分の意見だと思っていたものが、実は親の意見であったら、またはそれを擁護するだけの主張でしかなかったら、いったい自分とは何者なのだろうか。

 

なんだか誰かの指示に従ってばかりいるような気がする。

なんだか周囲の期待に応える自分を演じている気がする。

自分の行動がすべて社会的常識をなぞったものばかりな気がする。

 

このような、「何かが違う」という違和感をキャッチし、そのあとに、

全くの誰にも染まっていない自分のオリジナルな意見をどのように持つべきか、と

振り返った瞬間こそが、自立の始まりである。

 

自分の意見を待たないまま、自分に合わない価値観を自分に押し付けていると、

その相性が悪い場合、やがてストレスが蓄積していき、いつまでも疲れが取れなかったり、身体が変調を起こし始める。

例えば、仕事に対し真面目に努力する姿は、一般的には称賛される傾向にあるが、

親から受け継いだ家業を必死に守ろうと、婚期を逃したり、身体を壊してでも自分の仕事を全うしようとする人がいる。

しかし、人生を諦めてまで体を壊してまで家業を続けるべきなのだろうか。

 

いったい自分の人生にとって、何を優先するべきなのだろうかという疑問は、一生ついて回る人生の課題である。

選択肢の取捨選択をするとき、そこに親の意見や、社会的常識だけでなく、自分の気持ちが同じ比重をもって並べられたとき、やっと自分の意見を持つことができる可能性ができるのである。

 

まとめ

世の中には様々な意見がある。それぞれがそれぞれの正義感を背景にした主張をしている。

しかし、その正義感とは全人類が押し付けられるべきものなのであろうか。

どんなに絶対的な善悪の判断も、絶対に守るべきものなのであろうか。

世の中にはたくさんの人がおり、それぞれの正義感、倫理観をもって、それが集団になってかろうじて集団生活を維持している。

そしてどんなに熱を帯びた主張であっても、そのルーツはその人の過去にたどることができ、誰かが(多くは親)吹き込んだものである。

 

いったい、自分のオリジナルの意見とはどこにあるのだろうか。

親に叩き込まれた、社会の常識、みんなやってるから、人として…などと言ってごまかし、それ以上進まない議論に関してその常識を疑うことはできないのだろうか。

教えられた通りに動くばかりでは、それはプログラムされた機械と同じだ。

人間として生まれたのならば、常識を疑い、そこで確信(核心)をとらえた自分の意見を持つことが、生きていく上で大切なのではないだろうか。

 







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