人間は様々な感情を持ち、感情を表現したい気持ちがある。
そして、様々な形で表現された感情は、人間に芸術をもたらし、今もなお多岐にわたって発展をし続けている。
一方、欲求を満たしたいという衝動もある。
こちらの方は、素直に表現してしまうと処罰の対象にされる場合がある。
また、人間は論理的な思考が可能で、論理的に判断を下すことができる。
感情よりも論理を重視する考え方は、科学を発展させ現代の社会を支えている。
我々人間が、欲求を満たしたいという衝動を抑えることができるのは、こうした論理的な判断が可能だからである。
人間は、日常生活の様々な場面において、感情と論理の間で揺れ動く。
どちらを重視するかはその人の個性によるが、どちらかに偏りすぎているなら、それはバランスを欠いた生き方になっている。
人間が持つ感情とは何か
我々は、日常生活において様々な出来事に直面し、喜びや怒りなどを覚える。
この感情は、喜怒哀楽の4種類だけではなく非常に多彩である。
ある時は感情が混ざり合い、またある時は矛盾する感情が合体したりもする。
そして、人間には感情を表現したいという欲求がある。
この欲求によって感情は、言葉であったり絵であったり、あるいは踊りであったりさまざまな形で表現され、確立された表現方法は、芸術と呼ばれている。
注目するべきなのは、感情には人間を変える力があるということである。
人間が何かを始めたり、あるいは止めたりするきっかけは感情による影響であることが多い。
または努力を続けるモチベーションの維持にも感情は欠かせない。
このように感情は人間の行動のエネルギー源にもなっている。
さらに、感情には欲望という一面もある。
「○○が欲しい」「○○したい」という気持ちは人間の向上心の現れであるが、単純に自らの欲求を満たすと、社会的に問題がある場合がある。
その問題の大きさは様々である。2人の人間関係で収まるものから社会の維持を困難にする場合もある。
こうした問題を抑えるため、あるいは危険の回避のため、欲求の追求は自制しなければならない。
人間の欲望と自制との戦いは、宗教や法律を経て、今なお続いている。
人間が持つ論理性とは何か
人間は、論理を組み立て、道筋に沿って答えを導くという思考が可能である。
この筋道を立てて考える手法は、正解や最善策を導く最短で合理的な手段であり、人類の科学の発展を支えた。
この論理的なものの考え方は、生き方にも影響を与える。
知恵を絞って困難を突破する、何があっても約束を守る、大切なものを守るために命を投げ出す。
こういった筋を通す姿勢は、生き様や美学に通じ、感動を呼ぶ。
しかしその反面、論理にばかり従って生きていく姿勢では、あまりにも自分の感情を押し殺しすぎている。
それはロボット的とも言える頑固さで、本来の人間が持つ温かみや色彩のようなものを感じさせない。
現代の日本社会には、こうした冷たくて色味のない、疲れきったビジネスマンが多すぎるのではないだろうか。
人間は感情と論理の間の存在
社会では、決断には根拠を求められ、行動には正当性を求められる。
真面目すぎる人は、こういった合理性を求めて当然だと考えるし、相手にも求める。
こうしていつも自分の感情を排し論理的に判断していると、味気ない人生になってしまう
また、人間には感情的な衝動や直観など、論理を超越した動機が存在することも事実である。
自分の感情に素直な人は、ルールや合理性よりも自分の気持ちを優先する。
こうしていつも自分の感情に沿って判断していると、知性を感じさせない生き方になってしまう。
以上のように、論理と感情のどちらを優先するべきかという問題は、いつも難しい。
我々の日常は、論理と感情の間で踊らされているようなものである。
その結果、「不合理だが満足したい。」あるいは「不満だが合理的である。」という釈然としない状況に追い込まれる。
選択にはその人の流儀が表れる。
どのような方針で決断をするか、どのような状況で感情を優先させるのか、どのような状況で論理を優先させるのか、の選び方はその人の個性そのものであり、その人の人生を作っていく。
感情が先か、論理が先か
人間の判断というものは、実は非常に怪しいものである。
一般的に我々は、選択や判断をするにあたり、正当な理由を根拠として選択や決断や行動をしている。
例えば、お金を稼ぐ必要があるから、会社に就職する。
インクが切れたから、新しいペンを買う。
このように、我々の判断は論理的である。行動には必ず必要性や理由が存在する。
…と思いがちだ。
しかし、そうとも言い切れない事態も実は多いことに気付いていない。
つまり、我々は欲求を満たすために、無意識のうちに必要性や理由という根拠をねつ造しているのだ。
例えば、買いたいものがあるとき、買うことを決めてから正当化する理由を探している。
「そろそろ買い替え時だから」「今ちょうど切らしていたから」「自分へのご褒美」などなど。
このように自分の欲求を満たす決断をしてから、正当化する理由を後付けする傾向がある。
そして、本人にはその自覚がない。
本人がどんなに正当な理由で選んだと思っていても、実は単純に欲求を優先した結果であることが多い。
しかも、その理由は説得力に欠けていたりもする。
「自分へのご褒美」なんて理由はその典型だ。
我々には、こういった結論ありきの行動が多い。
欲求を満たす決断をした後に、言い訳を見つけ出し、自分の行動に許可を出す。
その正当性をもって行動に出る。そして欲は満たされる。
こういった背景があり、自分が行った判断や行動は、
根拠があって判断や行動をしているのか、欲求を満たすために決断や行動をした後に正当性を見出しているのか、の区別は難しい。
まとめ
このように人間は、社会生活を営む上で論理と感情に挟まれて生きている。
言わば人間は、感情的衝動に支配される動物とプログラム通りにしか動けない機械との間に位置している。
感情も論理もどちらも重要で、どちらか片方だけが推奨されるものではない。
どちらか片方に偏重した生き方というのは、いかにもバランスが悪い。
感情と論理の両方を尊重し、両方を生かすことが、より豊かな人生を送ることに繋がる。
はたして今日、あなたが下した決断は、論理に基づくものだっただろうか、それとも感情を優先したものだっただろうか。