日常生活において不安はつきものだ。
誰でも苦手な分野や未経験への挑戦は不安を感じるし、時にはリスクを承知で飛び込まなければならない時もある。
しかし、自信がない人の中には、不安を大げさにしか受け取れず、いつも不安に押しつぶされそうな人もいる。
杞憂という言葉があるように、ありもしない出来事に不安がり、いつも心配で仕方ない。
もちろん好きで不安がっているわけではない。体が勝手に不安に過剰反応してしまうのだ。
なぜ、そこまで不安に敏感になってしまったのだろうか。
そのルーツを理解した上で、不安を拡大させてしまう癖を治す方法を考えてみよう。
目次
不安の拡大解釈をする人の特徴
いつも不安で仕方ない人は、自分の身の回りのあらゆるところから不安の種を見つけてくる。
当然その結果、本人はいつも不安と心配でいっぱいになり、恐怖に怯える日常を送っている。
人の言いなりになる
いつも不安な人は、自分の意見を主張できない。
たとえ会議中に相手の主張に異議があっても、口を挟まず自分の意見を飲み込んでしまう。
自分に意見を求められても、相手に調子を合わせてしまったり、自分の意見を曲げてしまう。
どんなに自分に素晴らしい意見や鋭い視点があっても、どうしても口が開こうとしないのだ。
さらに、誰かに相談や頼み事を持ち掛けられず、人との信頼関係を築くことができない。
人間関係の構築には、上下関係だけでなく対等な関係も大切なのだが、上下関係を作りたがるように見える姿に周囲を困惑させる。
人から認められようとする
いつも不安な人は、目の前の人や目上の人の機嫌を取るような態度を取る。
このため、気を引くような態度を取ったり、喜ばせようとする。
彼らにとって、人間関係に重要なのは、相手の機嫌を損ねないことである。
このような態度は、「あの人の笑顔が見たい」などというさわやかなものではなく、もっと切羽詰まった緊張感が漂う。
何か安心できる場所を探しているような、必死さがにじみ出ている。
自分の価値を他人からの評価に委ねている
いつも不安な人は、自己評価が低く、自分の存在価値に懐疑的である。
そして、他人から拒否されたり評価されなかったりすると、「自分に価値がないのだ」と凹む。
このため、彼らはちょっとした批判や低い評価をされただけで非常に動揺する。
彼らは、他人からの評価によってしか、自分の価値を確かることができない。
つまり、誰かから褒められたか、けなされたかによって、自分の価値を確認している。
いい人になろうとする
一般的に、断らない人、もめ事を起こさない人、控えめな人は、社会生活上は歓迎される傾向がある。
いつも不安な人のふるまいは、こういったいい人像と一致することが多い。
なぜなら、いつも不安な人は、いい人像を実践できている間は、社会に受け入れられる条件を満たしている実感があり、安心感を覚えるのだ。
こうした安心感を満たすため、どうしてもいい人を止めることができない。
潜在的な危険を探す
いつも不安な人は、自分の身に危険が及ばないかと、潜在的な部分にまで危険を探す。
そして危険を見つけ出しては大げさに受け取り、いつもの不安ワールドに閉じこもったり、行動を起こせなくなることもある。
例えば、誰かと会う機会があると、こんなことを言っては嫌われるのではないか、怒らせてしまうのではないか、と不安がり、
いつの間にかその不安は嫌われるに違いない、怒られるに違いないという確信へと変わり、怖くて発言を取りやめてしまう。
とにかくネガティブ要因の検索能力が高い。
事前に悪いケースを予想する
いつも不安な人は、事前に悪いことが起こることを想定し、準備しておきたいという心理が働く。
可能な限り予想される悪いことを考え、リスクの洗い出しをする。
しかし、そのリスクの考え方が悲観的過ぎる。
そして場合によっては、現実逃避する。
本来の事前の準備とは、リスクを洗い出し、それぞれの対処法を考え、目標達成への入念な準備を建設的に行うことを言う。
しかし、行動や挑戦を諦めるために不安材料をほじくり返すなら、それは逃避を前提とした考え方である。
肩こり、腰痛などの様々な症状
いつも不安な人は、いつも緊張にさらされ、神経過敏で体がこわばっている。
全身が危険の察知に神経をとがらせており、名前を呼ばれた時や大きな音に過敏に反応する。
全身の筋肉は緊張し、肩こり、頭痛、動機、頻尿、のどが引っかかるなどの症状が現れる。
常にこのような状態のため、エネルギーの消耗も早く、いつも疲れており覇気を感じない。
【重要!】不安を拡大解釈していることに無自覚
以上のような態度は、明らかに不安に対する過剰反応である。
不安に感じなくてもよいような環境においてもわざわざ不安を見つけて、不安がる姿はほとんど不安依存のように見える。
もちろん本人も不安でいたいわけではない。
本気で不安から解放されたがっている。
しかし、現実の自分はいつも不安を探してばかりで、そんな自分に嫌気がさしている。
いつも不安な人は、こうした矛盾に挟まれ抜け出せずに苦しんでいる。
一体いつから、こんな不安な自分になってしまったのだろうか。
なぜ不安を探してしまうようになってしまったのか
原因① 親からの無価値観の植え付け
子供は、両親から気に入られないと生命の危機を迎えるので、必死に顔色をうかがう。
大人から見た子供時代というのは、責任がない自由きままな生活を送っている、と思われがちだが、実際は生きるか死ぬかの緊張感に満ちており、生きるために必死に保護者の機嫌を取っている。
その親からのしつけや教育の過程で、両親から価値を認められないと感じて育つと、
その傷がいえる日が来るまでひたすら目の前の人に対して価値を認められようと努力し続ける。
そして、その後の人生において、人に気に入られることを第一に考えるようになる。
主張ができなかったり、反論ができないのは、本院の勇気ややる気の問題とは限らず、こうした幼少期に作られた性格による影響もある。
原因② 親の過度の放任
過度の放任主義の教育を行う親は、子供が自力で解決できない課題に直面しても放置する。
子供としては、多大な緊張と危険を感じているが、親からの助けがない。
こうした頼るものがなく、不安にさらされた経験が染みつくと、そのまま大人になってもそうした感じ方を引き継ぎ、リスクを過大に考える癖が身についてしまう。
原因③ 親の過保護
過保護な親は、子供の行動の一つ一つに「○○は危険だからやめなさい」「○○は危険だから近づくな」などと繰り返し注意する。
こうした注意があまりにしつこいと子供には、「世界は危険に満ちている」という誤解が刷り込まれる。
また、過保護な親は、子供のせっかくの未知への挑戦の機会を奪い、親がすべて対処してしまうとため、子供には未知の事態に対する適応能力が身につかない。
こうして、未知に対する認識は、「挑戦は避けるべきもの。誰かが対処するべきも」のという定義がインプットされる。
不安を拡大解釈する癖を治すには
長年かけて体に染みついた習慣を変えることは容易ではないが、普段から意識して考え方を修正することで少しずつ思考の癖は修正されていく。
つい、いつもの癖で不安を拡大解釈してしまったら、一旦立ち止まって、偏った考え方をしていなかったか振り返ってみよう。
他人からの評価を絶対視しない
他者からの評価は重要ではあるが、それがすべてではない。
自己評価を高めるには、他己評価と自己評価の両方をバランスよく受け取らなければならない。
自分の価値は自分が決めていいのだ。
それに気づくことができたら、自分のいいところを見つけて無条件で自分に価値があると考えよう。
これが身に付けば、相手から批判や低い評価をされても「それでも俺には○○がある」と自尊心を必要以上に傷つけることを防ぐことができる。
ネガティブ要因を探さない
ネガティブ要因を探してばかりいると、状況の正確な把握ができず、実際よりも深刻にとらえてしまう。
その実際以上のハードルの高さに自分の能力に限界を感じ、自信を無くすのだ。
リスクも突発で発生した課題も、実は考えているより複雑でないし、解決可能なものであることが多い。
そもそも課題なんてものは、怒ったときに考えればよい。
これからは、悪いことばかりを想像することを止め、自分の対処能力に期待しよう。
意のままに行動する
自分が思った通りに行動してみよう。
誰かに反対されても、それに負けずに理由を述べれば、それを認めてくれるはずだ。
はっきり言って、理由なんてものも理由になってなくてもいい。
実際に社会や人を動かしているのは、根拠の正確さや説明の納得性といった説得力ではなく、単純に声の大きさやその時の表情や勢いであったりする。
だから、誰かに反対されたときや反対されそうなときは、自分の主張の正しさではなく、意見を持っていること自体に自信をもって訴えよう。
きっと受け入れてくれるはずだ。
成功の確率を上げる
行動を起こす場合は、リスクを減らす準備をした上で、できることから始めよう。
簡単なものから、あるいは過去に似た経験をしたものから挑戦すれば、その心理的ハードルは低いはずだ。
予想されるリスクについても、現実離れしたリスクの発生はこの際、考えない。
こうして行動を起こす前にパニックを起こすのではなく、できない理由ではなくできる理由を冷静に探そう。
自信とは、良い結果がもたらすだけではない。
挑戦した自分を褒めることができたとき、昨日の自分より少し自信がついているのである。