やらなければならないのだが、どうしても踏み出せない時がある。
踏み出そうとするとき、踏み出す力より大きな力が全身を覆い、アクセルを踏んだ瞬間に急ブレーキを踏まれたような感覚が我々を襲う。
何かが自分を引き留めている。謎の勢力が踏み出すことを阻止しようとしている。
こうして頭ではわかっているのだが、一歩が踏み出せず、その場に立ち尽くしてしまう状態が生まれる。
このような事態に対して、我々は自分の意志が弱いと解釈してしまう。
そんな自分に嫌気がさし、自信を無くす。
一体、我々の前進を食い止めようとする者の正体とは何か。
そして、その謎の勢力と戦うためにはどうすればいいのだろうか。
不安や恐怖という障害
どうしても踏み出せないと感じるときの状況は様々である。
やらなければならないのに、不安要素が次々と見つかり、面倒に感じる。
いざ「やろう」と努力するときに限って、邪魔が入ったり、不運が重なったりする。
やるべきことを目の前にして、あまりの恐怖に全身が硬直する。
これではせっかくの意欲も削がれてしまい、やる気をなくしてしまう。
そこで思いついた、踏み出さなくてよい理由にしがみつく。
「まだ早い」、「先にこれをやってから」、「○○が足りない」、「もっといい方法は無いか」などと。
そしていつまでも踏み出せないという状況が保留される。
やらなければならないが保留のままという矛盾に、じわじわと心理的にも追い詰められていく。
手付かずの状態は周囲からの評価を下げるが、最も苦しいのは自分自身に対する評価である。
それは「やらなければならないことをやらなかったから」というより、「あまりに自分が臆病だから」である。
弱い自分と向き合う
人間は恐怖に弱い。恐怖を感じると必死に逃げようとする。
だから、逃げる自分を正当化するための言い訳を必死に探す。
できるだけ周囲の人たちに説得力のあるものを。
しかし、この臆病な自分が見つけてきた後付けの言い訳に耳を貸してはいけない。
むしろ思い浮かんだ言い訳をつぶしていき、徹底的に自分を追い込むのだ。
ついに言い訳できない状況を作り上げることができると、最後に残るのは弱い自分である。
その弱い自分と向き合い、彼に問いかけよう。
逃げていい状況なのか?いつまで逃げているつもりだ?
なぜ踏み出せないのか
どうしても踏み出せないという気持ちの根底にあるのは自己防衛である。
強い不安や恐怖を感じるとこれを避けようとするのは無意識的な反応である。
脳が身の危険を予測したために、踏み出すことを必死に阻止しようとしているのだ。
言わば、リミッターが働いた状態だ。
リミッターを発動させるものとは、個人差があるが例えば以下のようなものだ。
・失敗が目に見えている
失敗することが読めていると、当然踏み出しにくい。
やらなければいけないものが、苦手なものや未経験のもの、過去に失敗をしているもの、成功に向けてポジティブな材料が少ない場合などは、失敗せずに済む見込みが立たない。
失敗が許されない状況であればさらに緊張が高まり、不安の強度が増す。
・失敗の先に恐怖を予感している
頑張って踏み出してみたところで失敗する見込みしか立たず、なおかつ失敗した後の事態に恐怖を予感していると、踏み出せない。
社会は厳しい。基本的に失敗の後には厳しい仕打ちが待っている。恐怖を予感するのは当然だ。
また、失敗することは自分に能力がないことを証明することになるので、その憂うべき事態を避けようと挑戦すること自体を避けようとする。
そのほか、踏み出すことによってさらに事態が悪化し、面倒なことになるという予測が立つとやはり踏み出せない。
誰だって仕事は増やしたくないし、収拾がつかなくなる事態に足を踏み入れたくない。
・安定状態への依存
人間は慣れた環境に依存しやすく、慣れ親しんだ環境や方法を変化させることには拒否的である。
しかも依存心は時間がたつほど強くなる。つまり、どんどん踏み出しにくくなる。
例えば、いつも通りのやり方を変えることに対し、心はかき乱され動揺する。
新しいやり方を試すことを非常に面倒に感じ、変化させようとするものに敵意さえ抱く。
こうした状況が長引くほど、どんどん踏み出しにくくなっていく。
こうした頑固な姿勢が、柔軟性の欠如や時代遅れを生み出すのだ。
●参考リンク:選択の法則│必ず心理的ハードルが低い選択肢を選ぶ
・信念と矛盾している
「やらなければならないこと」と自分の信念として「やりたくないこと」がぶつかり合うと、踏み出せなくなる。
そこに矛盾が生じるからだ。
頭ではわかっているが、体が拒否するといった状態が発生する。
信念とは、人生をかけて作り上げた体系であり、自分自身と言っていい。
長年築き上げてきた信念はなかなか曲げられるものではない。
やらなければならないことが、自分の信念と相反するものであれば、行動に躊躇してしまうのも当然である。
・存在意義の否定
人間にとって最も避けたい事態は、存在意義を否定されることである。
存在意義の否定は最も恐怖を感じることであり、全力で避けようとする。
だから、踏み出した先に予想されることが存在意義の否定である場合、どうしても踏み出すことはできない。
・これに失敗したら、俺はここにいる意味がないな。
・これに成功してしまったら、今までの俺の努力は一体何だったのか。
こういった予測が立っていると、踏み出すことができなくなる。
自分の存在意義を確保しようという思いは、それほど強烈なのである。
・失敗に対する感度が高すぎる
厳しすぎる両親のもとで育つと、極度に失敗を恐れる性格が身につく。
小さいころから失敗に対して厳しい指導をされ続けると、失敗に対して極度に恐れるようになる。
失敗に対する感度が高すぎると、一般的にはちょっとした不安でも本人にとっては拷問のように恐怖を感じている。
恐怖は不安をあおり、行動を抑制する。
そしてついに踏み出せなくなってしまうのだ。
・最も厄介なもの
最も厄介なのは、恐怖を感じていることに無自覚であることだ。
踏み出さないための理由や言い訳に説得力を感じたとしても、それは錯覚だ。
失敗への不安であったり、その先に感じる恐怖からの回避行動として、必死に逃げる口実を探そうとしているのだ。
逃げようとする臆病な自分を捕まえ、冷静に考え直してみよう。
その言い訳は、本当に納得できるものかどうか。
●参考リンク:無自覚な嘘│「判断」は「理由」に基づいていない
以上のように、踏み出せないのは、怖いからだ。
しかし、現実にはどんなに恐怖を感じても、ここ一番で難局を乗り越えなければならない、勝負どころがある。
ここはつらいところだが、身を危険にさらすリスクを取り、事態を進展させよう。
死ぬかもしれないという恐怖と戦い、踏み出すのだ。
幸い、我々は自律している。
やるかやらないかの最終判断と、一歩前に足を踏み出すかどうかは我々の意志にかかっている。
どうしたら踏み出せるのか
いかなる理由であれ、解決できる方向に考え、不安要素をつぶしていく。
そして、最後に残るのは臆病な自分だ。
その弱い自分と向き合い、踏み出さないことでいいのか問いかけるのだ。
答えはわかっているはずだ。踏み出せばいいだけなのだ。
いつか覚悟を決めて勝負をかけなければいけない。
怖いと思うときほど、臆病な自分と決別するのだ。いつまでも子供ではいられない。
未熟な自分から脱し、成長した自分にシフトするためには、自分を追い込む必要がある。
・踏み出さないことのデメリットの理解する
どんな言い訳が思い浮かぼうが、踏み出さないことには事態は進展しない。
失敗が目に見えていたり、かえって状況が悪化すると予感していても、踏み出さなければならない。
状況をそのままにしておくことは、さらに自分の成長を止めることになるからだ。
失敗無くして成長なし。失敗したらそこから学習し、次から失敗しないようにしていこう。
状況がさらに悪化しそうな予感があるなら、誰かに相談するなりして、悪化させずに事態を収束できる方法を探ろう。
やらないで済む理由を探すのではなく、前向きに悩む姿勢が大切だ。
また、今までのやり方を続けたいときも、逃げたい気持ちのサインである。
不変は成長のストップである。
昨日のままでは明日を生きられない。常に成長し続けなければならない。
毎日同じことをしているだけでは、淘汰されていく。つまり滅びの道である。
・退路を断つ
やらなくていい理由や言い訳など、思いつく選択肢を一つ一つつぶしていき、やらざるを得ない状況に追い込む。
最終的に、踏み出すか、踏み出さないのかの二択しかない状況を作るのだ。
逃げられない状態になれば、後は臆病な自分との勝負だ。
自分が臆病だという理由で、目標から逃げていいのだろうか。
それはとても情けないことではないだろうか。
自分勝手な理由で逃げてばかりでは成長できないのではないか。
いつまでもわがままが子供のままでいいのか。
いつかは自分の内面と戦わなければならない時が来る。
そして、答えはもう出ているはずだ。
新しい成長した自分になる為に、弱くて臆病な自分に見切りをつけ、一歩踏み出す覚悟を決めるだけだ。
・執着を手放す
執着を手放すと言うのは簡単だが、ほとんど不可能なほど難しい。
その苦しみと決断は自殺と同じだ。
執着とは自分のこだわりであり、自分自身の投影でもある。
踏み出せない時は、自分がこだわっているものが足を止めている可能性がある。
どうしてもこだわりを捨てきることができず、踏み出せないのだ。
これまで自分が築き上げてきたものを壊すということは、それまでの人生を手放すということでもある。
簡単に決断できるものではない。
しかし、何かを得ようと思ったら、何かを捨てなければならない。
そして、捨てるべきものは、時には自分のこだわりである場合もある。
自分のこだわりを守り抜くのか、それとも新しい自分に変化していくのか。
答えはいつも二つに一つしかない。
我々は踏み出せない時、この究極の質問を投げかけられているのである。