我々は人間として生まれたが、動物としての宿命や制約がある。
呼吸をするし、腹は減るし、眠くなるし、発情もする。生存できる環境も限られている。
しかし、人間は明らかに他の動物と異なる性質を持つ。
それは、知性である。
人間はこの知性のおかげで、社会性があり、文化的活動も可能である。
そしてその反面、悩みもついて回ることになった。
この幸か不幸か手に入れてしまった知性とは何なのか。
そして、我々は知性とどのように付き合っていけばいいのだろうか。
人間と他の動物とを分ける知性とは何か
人間は他の動物に比べて突出して知能が高い。
これにより他者とのコミュニケーションが可能であり、社会生活を営むことができる。
人間は社会生活を維持してきた中で、文化的活動を蓄積し、さらに高度な社会へと発展させてきた。
しかし、高い知能だけでは、人間のような高度な社会活動は維持できない。
個人個人が自らの衝動にまかせた行動をしたり、これを他者に押し付けてばかりでは、社会は破たんするからだ。
そこで社会にはルールが必要になる。
人間は、欲望があっても理性でこれを抑え、ルールを守ることができたからこそ、絶滅せずにこれほど高度な社会を築くことができた。
このルールは世界各地に様々な形で存在する。
古くから伝わる信仰や風習などは、社会生活を維持する知恵であり、長い歴史を経て熟成されたルールと言える。
例えば、結婚や子供の誕生を祝い新しい命を祝福する、死を悲しみ故人を偲ぶ。
そのたびに行われる儀式は、気持ちの整理になり、社会の結束を高める効果がある。
このような冠婚葬祭にまつわる儀式は、世界中、そして古くから行われている。
これらは知性がもたらした、高度な社会活動である。
旧約聖書に描かれる知性とは
知性という観点から人間と動物の違いを説明しようという試みは、旧約聖書の中に見て取れる。
旧約聖書の創世記、知恵の樹の実にまつわるエピソードだ。
昔々、アダムとイブは他の動物たちと共にエデンの園で気ままに暮らしていた。
そこでは食べると死んでしまう知恵の樹の実だけは食べてはいけないということになっていたが、蛇にそそのかされ、うっかり知恵の樹の実を食べてしまう。
知恵の樹の実を食べアダムとイブは、自分が裸であることに気付き、恥部をイチジクの葉で隠した。
この一連の事実を知った神は怒り、アダムとイブをエデンの園から追い出した。
さらに、追い出された先では、男は労働の苦しみを、女は出産の苦しみを与えられた。
上記はかなりかなり簡略化した「知恵の樹の実」にまつわる物語である。
人間と動物の違いをどのように説明しようとしているか、見てみよう。
動物は、無意識の世界に生きており、自分の存在を知らず、死を知らない。
言わば、いつの間にかこの世に存在しており、欲求のままに生き、いつの間にか死を迎える。
生きている間はずっと裸で、そのことに恥ずかしさを感じることは無い。
一方、知恵の樹の実を食べたアダムとイブは、動物とは違う反応を示す。
知恵がついたことで、自分の存在に気付き、裸の自分に恥ずかしさを覚え、道具(イチジクの葉)を使って隠す。
また、それまで意識することがなかった「死」を認識できるようになった。つまり、死を意識した生き方をせざるを得なくなった。これも動物にはない特徴である。
さらに、神の怒りに触れたことで善悪の判断を知り、楽園から追い出されたことで感情を知った。
以上のように、知恵の樹の実にまつわるエピソードは、人間と動物の違いを非常によく表している。
聖書が2000年読み継がれるのも納得だ。
知性を持ったが故の苦しみ
人間は社会生活を営むほどの高い知能を手に入れてしまったために、生きていく上でたくさんの困難に出会う。
社会を形成し集団生活を行うことは、自らの衝動と社会生活上のルールを守ることの間に挟まれることであり、時に我々はその間で悩むことになる。
人間の世界は、動物には存在しないルールや義務や悩みがたくさんだ。
おかげで人間の中には、ルールや義務にがんじがらめにされてしまい、身動きが取れないほど思いつめている人もいる。
彼らは、悩みや思い込みが強すぎて、本来あるはずの本能的衝動・行動を制限しすぎている。
そして、やりたいことをやらずに我慢し続け、その我慢している自分に気付くこともなくまま一生を終える人さえいる。
しかしその苦しみは、他の動物にはない経験であり、喜びでもある。
悩み、苦しむことは社会生活上の障害のように感じるかもしれないが、
悩み苦しむことは、かつて地球上でどの動物にもできなかった経験を味わっているのだ。
つまり、悩むということは、知性を活用できていることである。
言い換えると悩みが多いほど、人間としての喜びを謳歌できていると言える。
知性がもたらす苦しみとどう付き合うべきか
人間はその知性により他の動物にはできない、「思考」を行使することができる。
悩み、決断し、行動を起こす。そして、その結果に感情を持つことができる。
人間に生まれてしまった以上、知性がもたらす喜びと苦しみの両面を受け入れなければならない。
死ぬまでの間この二つを抱えて生きなければならない。
人間に生まれ、悩むことは苦しい。しかしそれは人間だからだ。
そして同時に楽しみもあるはずだ。
アフリカのある民族は、「あの世で十分苦しんだから、この地球に遊ぶために生まれてきた。」という宗教観を持っているという。
この考え方を、人生に疲れてしまった人は見習うべきだ。
生まれてきたのは、苦しむためではない。
楽しむ権利もあるのだということを、この民族は教えてくれているのである。
まとめ
誰もが生まれ持った才能を生かした人生を送りたいと思っているだろう。
人間の場合、その才能とは、知性だ。
せっかく人間として生まれてきたのだから、この知性を存分に活用するべきだ。
他の動物がどんなにうらやんでも手に入らないものを、生まれながらにして持ち合わせている。
しかし、事実上、生きていく上で悩み疲れてしまうこともあるだろう。
我々は地球史上、最も複雑な社会に生きているのだから、悩むことが多いのも当然だ。
それなら、悩みに対しては悩んで解決してやろうじゃないか。
それが才能を活かすということだ。
知性は苦しみだけを運んでくるわけではない。
苦しみと喜びの両方を受け入れ、人生を充実したものにしていこう。
それが人間として生まれたものの使命だ。