一般的に男性は、計算や議論が得意で運動能力が高い。
また、記憶力や組織的行動も得意で、現代の男たちはこれらの能力を生かし、社会を動かしている。
男性は議論が大好きだ。
友達同士で、あるいは会社のチームのメンバーといくらでも議論を続ける。
議論のテーマが好きなものであれば、一晩を明かしてしまうことも少なくない。
男性にこれらを可能にするのは、論理的思考が高いからである。
社会を眺めてみても歴史を振り返っても、やはり論理的思考が得意なのは男性の方だ。
もし、論理的思考に関して苦手意識を持っている男性がいたら、自信を無くすことはない。
自分の隠れたポテンシャルにまだ気付いていないだけなのだから。
なぜ男性は論理的思考が得意なのか
一般的に動物は子育てを行わない。
産卵の後は手をかけず、大半は捕食されるか、飢えて死ぬ。
こうした動物が生き残ることができているのは、これに負けないくらいたくさんの卵を産む。
他方、子育てを行う動物もいる。
彼らは少数の子供を産み、大人になるまで面倒を見る。
もちろん、人間は後者に当てはまる。
類人猿から進化した我々は、類人猿の時代から小規模なコミュニティを形成し、そこで子供を育てる。
男性は自分のためだけでなく、コミュニティのために食料調達することでコミュニティとして生存率が高まった。
男性が外に出るのは、出産後の女性が子供から手を離せないからである。
こうして男性と女性の役割が分かれていった。
女性はコミュニティに残り、他の女性と協力したり子供の面倒を見るため、人間関係構築の能力が高くなった。
女性が感情豊かなのは、相手の感情を読み円滑な人間関係を構築するためだ。
一方、外に出て食料調達などをする男性は、組織的な行動や記憶力、計算力を発達させた。
また、狩猟や果実の採取などの実行力を高めるため、肉体は強靭化していった。
以上のように、男性と女性は、小さな村社会での役割分担を続ける中でそれぞれの能力を高めていったのである。
感情的衝動と論理的思考
人間の活動の起点になるものは、感情的衝動と論理的思考によるものの2つしかない。
感情的衝動に基づいた行動とは、道理や理屈を超えた判断による行動である。
それは、反射的なものであったり、熟慮の末にルールを破るものだったりする。
例えば、自分が時間をかけて努力した成果を踏みにじられたときに怒りのあまり反撃したり、
いけないことだとわかっていても不倫に走ったりする。
一方、論理的思考に基づいた行動とは、理由や根拠がある筋道の通った考えに基づく行動である。
そこに感情が邪魔をしてきても、介入を許さず論理を優先する行動の仕方だ。
「やりたくないな」とか「もっとこの気分に浸っていたいな」と思う場面でも、
やらなければならないから、ルールを破ってはいけないから、と感情を押し殺さなければならない。
特に仕事においてはそういう姿勢が求められる。
また、論理的思考に基づいた行動に徹していれば、気分や勘に頼らない考えに基づくため、無駄を防ぎ成功への最短ルートをたどることができる。
感情に振り回されていれば、何事もバラバラで必ず見落としを発生させる。
論理的思考は会社だけでなく日常生活においても役に立つ。
例えば家事においても同じことが言える。
家事は限られた時間内に大量の作業を行わなければならない。
しかし自分の都合で思いついた順に作業をしていたら、全てを時間内に完了することはできないだろう。
以上のように、論理的行動に基づく行動は、物事を効率的に進めることに有利である。
そして論理的思考は、実は男性の方が得意な分野でもある。
男性は論理的思考が得意である
男性は人類の進化の過程で、狩猟や環境の整備などの頭を使う仕事と力仕事を担当してきた。
例えば、食料の確保には、戦略が重要である。
まず、日頃から狩りの対象となる動物の習性を観察しておく必要がある。
そしていざ、狩りを行うときには、その獲物の弱点を突いたり習性を利用した罠をしかけるなどして、狩りを成功させる。
そして、これらの活動はチームによる行動が重要である。
知識と経験が豊富なリーダーが指揮を執り、役割を分担する。一人が得た有益な情報は全員と共有する。
こうして狩りはチームを結成することで成功率を上げ、飢えを克服しようとした。
狩りだけでなく、住居の建設も同様だ。
場所の選定、材料の選定と運搬、構造の理解、構築技術が必要である。
しかも肉体的にパワーが要る。
これらの活動は全て、論理的思考に基づかなければ効率的に進まない。
男性はこうした仕事を担当し続けることで、論理的思考という才能を確かなものにした。
近代の人類の文化史から見ても、男性の論理的思考の高さを示している。
学問を体系化したり、それを発展させた偉人には男性が多い。
現代に続く科学や芸術などの発展の歴史は、男性の努力によるとことが大きい。
これらの偉業は、論理的思考の得意な男性が特性を生かした結果というわけである。
論理的思考が苦手な男性
男性は論理的思考が得意だと書いたが、論理的思考を苦手とする男性もいる。
「俺は科学も数学が苦手」「理屈っぽい男は嫌いだ。そんな男になりたくない」といった声が聞こえてきそうだ。
しかし、それはそう思い込んでいるだけだ。本当は得意なのだ。
男性はよく議論をする。
議論の対象は仕事に限らない。趣味やニュースにもおよびその範囲は広い。
例えば、野球やサッカーの試合を見た後の感想を議論するとき、
「あのタイミングであの選手交代は間違っていた。」
「A選手は、よくあの難しい態勢でシュートを打てたな(ヒットを打てたな)。」
「次の試合の対戦相手は○○だから、次の戦略は△△にするべきだ。」
「とにかく全部ダメ!監督を辞めさせろ。前の○○監督だったら…」
などと、楽しそうに議論している。
このような議論は、論理的な思考がなければできない高度な議論である。
これを無意識に図示せずともお互いの理解の上で複雑に議論している。
もし、これらの会話が冷静さを欠く感情的なものであった場合、
「ダメだった!」「あーむかつく!」「あいつ死ねばいいのに。」
で終了してしまうのである。
しかし、実際の男性の会話というものは案外こうではなく、しっかり議論しているものだ。
つまり、論理的な思考が苦手だと思っているだけで、本当は得意なのだ。
論理的思考というものは、科学や数学だけのものではない。
原因と結果を、筋道を立てて考えることだ。
しかし、論理的思考が苦手だと考えてしまうのも無理もない。
理系科目は難しいという思い込みを、小学生のころから親や友達から刷り込まれてしまう傾向がある。
そして、理科や算数の点数が低いと、「ああ、やっぱり理系は難しいな。」と納得してしまい、苦手意識は確信に変わってしまうのである。
論理的思考が苦手だと思っている男性は、認識を改めよう。
本当は大好きなのだ。
男性は進化の過程で論理的思考が得意なようにできている。
この生まれる気持った才能を、もっと存分に発揮しようではないか。
論理的思考に苦手意識を持つ男性は、もっと自分に自信を持っていい。
まとめ
論理的思考なんてものは、特別に訓練などしなくても日常生活を送る中ですでに身に付けている。
少なくとも義務教育の期間中に、「原因」があって「結果」が得られるという当たり前の論理を勉強する。
それは理科や算数だけでなく、国語にも社会にも家庭科にも言えることだ。
そこに男性も女性も区別はない。同じ教育を受けているからだ。
しかし、男性は進化の過程で、論理的思考が得意なようにできている。
できるだけ感情を排し筋道通りに事を進める作業は、男性の方が得意だ。
生物的にも歴史的にもそう言える。
それなら、その生まれ持った論理的思考という才能を、男性は存分に発揮するべきだ。
いつの間にか思い込んでいる苦手意識でそのポテンシャルを眠らせたままなんてもったいない。
これからは、男性としてその才能を駆使して自分の人生を全うしよう。
それが男の生き方というものである。