完璧主義者とは、常に高い完成度を求めて妥協を許さない人である。
このような姿勢は、社会人として、あるいは人として尊敬できるところだ。
しかし、自信がない人は、完璧を目指すと言うよりは完璧への脅迫観念にとらわれている。
何かに取りかかる前に「完璧以外の完成度を許せない」と意気込みすぎていたり、終わった後に「完璧でなかったこと」を許せず苦しい思いをしている。
完璧を求めすぎる思いが強すぎるのだ。
そもそもなぜ、完璧を求めすぎるようになってしまったのだろうか。
そのルーツを理解した上で、不健全な完璧主義を克服する方法を考えてみよう。
目次
完璧を求めすぎる人の特徴
完璧という理想に取りつかれた人は、それを手に入れようと必死になるあまりに、考え方や行動に支障が現れる。
なぜなら、完璧なものなど存在しないし、実現不可能だからだ。
常にイライラと不満を抱えている
目に入るすべてに対し、完璧かどうかという判断基準でジャッジしながら生きている。
その高すぎる基準は、自分にも他人にも、さらに過去や未来の出来事にも当てはめる。
例えば、テストに合格したり目標を達成しても、完璧でない部分に注目し、反省する。
また、自分や自分の所属するグループとは全くの無関係の第三者に対しても、いい加減な姿勢であったり、中途半端な作業であったり、ルーズな態度を見るにつけ、イライラする。
気持ちに余裕がない
完璧でなければならないという前提で、課題などに取り組む姿勢は、いつも緊迫している。
完璧ではない=人生の終わりだとでもいうような、この強迫観念に支配されると、完璧ではない結果つまり失敗に終わった際のリカバリーの概念がない。
とにかくやってみて、失敗したらリカバリーやフォローをするという考えが欠落しているため、判断するときや課題を進めるときは、緊張感に満ちている。
悲観しすぎて判断を下せない
完璧を求め失敗を恐れるあまり、なかなか決めることができない。
仮に失敗しても取り返しがつくような判断に対しても、一切気を抜けない。
また、小さなリスクも大きく考えてしまい、自分の責任問題まで考えてしまう。
こうしてなかなか決断に踏み切れない。
いつも忙しい
例えば、仕事に対して完璧を目指し非の打ちどころのないものにしようと考えると、作業や段取りが増えるため、時間が足りなくなる。
また、理想の完璧な自分像を実現しようと、様々な活動に着手する人もいる。
「キラキラした私」を具現化しようとする女性は、週末や帰社後の予定は自分磨きでいっぱいだ。
予定が増えれば当然、準備やら人付き合いやらで時間を割くことになる。忙しいはずだ。
広く浅くなる
完璧を実現しようとすると、自分を取り巻くすべてに完璧を求めようとする。
手を広げる範囲が広くなれば、当然広く浅くならざるを得ない。時間には限りがあるからだ。
それでも時間がない中で空き時間を捻出し、その隙間時間で別の仕事や勉強をしようとしたりする。
これでは、エネルギーを消耗する。
しかし、現実にはやることが沢山ありすぎて、完成にこぎつけるものが少なくなり、仕上げもおろそかになり、ミスも多くなる。
こうして、周囲に迷惑をかけたりする。
行動を先送りする
行動を起こす前の段階で、完璧な結果を得られる確証が持てず、行動することを躊躇する。
そして、やらなければならないにもかかわらず、やらなくて済む理由を見つけ出し、行動を避けたり、先送りする。
完璧を求めすぎるあまりに、完璧でないものを手に入れるくらいなら逃げた方がマシ、というわけだ。
それほど偏った完璧主義者は、完璧でないものを受け入れられないのだ。
【重要!】無自覚な完璧主義
以上のような姿勢は、明らかに偏ったものの考え方と行動であるが、
本人としては、あるべき姿を目指す常識的な姿勢だと信じ込んでいる。
しかし、彼ら自身は完璧主義になりたくてなっているわけではない。
むしろ、早く完璧主義を止めて肩の荷を下ろしたがっている。
いつか完璧でなくてもよい、完璧でなかったことを許してもらえる日を待っている
しかしそうした周りの声さえをどうしても受け入れられない。
古くから体に染みついた習慣がそうさせるのだ。
現実には完璧なものなど存在しない。だが目指さずにはいられない。
そして完璧ではなかった結果に落胆しかできない。
この、どうあがいても結局不幸な結末になる迷路から抜け出せず、疲れ切っている。
残念なことに彼らはこの解決できない矛盾を抱えていることにさえ気づいていない。
いや、気付いていても、どうしてもやめられない。
これが自信を持てない人の苦しみの本質なのである。
なぜ完璧を求めるようになってしまったのか
原因① 厳しすぎる親
厳しすぎる親は、子供に対して学校のテストやスポーツ大会、習い事、家の手伝いが完璧だった時しか褒めない。そしてそんなことはめったにない。
完璧ではなかったときは、自分ではうまくいったと思っても、親がより完璧であることを求める。
場合によっては厳しい罰が与えられる。
一方、子供は親から認められているか、良い評価を得られるか、いつも気にしている。
親がいないと生きていけないから、子供は親の機嫌を取ろうと必死である。
見捨てられたくない子供は、生きていくためにも、親が認めてくれるような結果を残そうとする。
その結果、「完璧にやったとき初めて認められる」と考えるようになる。
完璧な結果が残せなければ、親に自分の価値を認めてもらえない。
こうしてこの不幸な考え方は、親からの厳しい叱責という恐怖とともに刷り込まれる。
また、完璧でないのは自分が悪い、自分の価値が低いと考える習慣が身につく。
しかし、本当は、自分の努力の結果と自分の価値を混同したものである。
人間の価値は、実績で決まるわけではなく、存在そのものである。
そこを親は無視している。
原因② 厳しすぎる社会
会社では当然、ミスは許されない空気がある。
しかしそれは表向きだ。
会社はチームで動く団体戦だ。誰かのミスはみんなでカバーするものだ。
偏った完璧主義者は、会社の雰囲気や、失敗が許されないという緊張感をそのままダイレクトに受け取りすぎている。
完璧を求められて育った子供たちは、社会に出ても小さいころに身に付けた考え方を忠実に守り、実現できもしない目標に向かって頑張り続けている。
完璧を求めすぎる癖を治すには
長年かけて体に染みついた習慣を変えることは容易ではないが、普段から意識して考え方を修正することで少しずつ思考の癖は修正されていく。
つい、いつもの癖で完璧を求めすぎてしまったら、一旦立ち止まって、偏った考え方をしていなかったか振り返ってみよう。
失敗に寛容になる
不完全=失敗という判定基準はあまりにも厳しすぎる。
そんな判定基準で世の中を見ていたら、目に入るすべてがストレス源になってしまう。
完璧を求めすぎる癖を治すには、不完全=失敗という極端な固定観念を破壊しなければならない。
失敗を受け入れよう。
不完全なものを受け入れられないから、息苦しくなるのだ。
それなら不完全なものを受け入れることができるようになれば、息苦しさや緊張から少しずつ解放されていく。
事実上、世の中は不完全なものだけでできている。
人間そのものが不完全なのだから、人間が作るすべては不完全なものにしかならない。
そして、自分も自分が勤める会社も、通っていた学校も、親もその一部なのである。
また、失敗がその人の価値を決定しないことも理解しよう。
不健全な完璧主義者は、失敗を人格否定にまでつなげてしまうからややこしくなる。
世の中には失敗を取り戻せるものがあるということ、自分の失敗を許してくれる人がいることを思い出そう。
失敗は許されるべきものなのだ。
完璧でなかった自分を許す
完璧かどうかで判断するから苦しくなる。
事実上完璧なものなど存在しないわけだから、どんなに頑張っても結局苦しめられることになる。
こんなバカげた基準で生きていれば息苦しくなるのも当然だ。
完璧ではなかった結果を、許してみよう。
何でもかんでも完璧でなければならないという考えは、非現実的なものだと理解しよう。
例えば、努力の結果が完璧でなかったとしても、
「これくらいの失敗をすることもある。」 「ま、こんなもんか。」
「上出来、上出来。」 「○○点まで取れたから十分だ。」
…と完璧ではない自分を許すことに慣れよう。
完璧ではなく合格点を目指す
完璧など、実現不可能であるという現実を受け入れよう。
もし仮に、無限の時間と無限のエネルギーがあったら、完璧なものを実現できるのだろうか。
おそらく不可能である。事実上完璧なものなど存在しないからだ。
現実世界を動かすものは完全なものではない。
不完全なものが不完全なまま何とか機能しているのが、現実の社会であり、歴史はその積み重ねである。
それなら、自分が目指すところも不完全なものでいいではないか。
完璧という幻想を捨てて、合格点や及第点という考え方を身に付けよう。
何かの課題への取り組みで、目指すべきは合格点であり、完璧ではないと理解しよう。
むしろ、最終ゴールは最低合格点やボーダーギリギリで構わないくらいなのだ。
行動を先送りにしない
行動を先送りにしてしまうのは、不安が勝ってしまうからだ。
それなら不安が大きくならないうちに、行動を起こしてしまおう。
やるべきことが沢山ある場合は、優先順位をつけて高い順から着手する。
あるいは、やりやすいところ、自分にもできるところ、失敗してもダメージが少ないところから始めてもよい。
とにかく行動を起こすには不安を軽くして、思い切って踏み出すことが何よりも大切である。