我々は普段何気なく、情報を仕入れ、これらを整理し、分析し、目標と照合してしかるべき判断をし、行動に移している。
そしてその情報収集から行動に至るまでの方針は、各個人によって異なる。
これが個性と呼ばれるものだ。
これにより、一つの情報をとってもその反応は、個別にさまざまである。
これが多彩な人生を生み、社会は多様性を生む。
社会の構成員が多いほど、統制を取ることが難しいのはこのためである。
しかし、その個性を形成するプロセスには、決まった手順がある。
あなたの行動のクセやパターンは、こうして作られた人格に支配されている。
まるでプログラムされた機械のように。
目次
プログラムされた二足歩行ロボット
人間は学習した内容を次に生かす性質がある。
危険な目に合えば、以後は危険な目に合わない様にその場所に近づかないようにし、
快感を得られれば、再度これを味わえるように、その状況を再現しようと挑戦や努力をする。
このように我々は過去の学習内容に従い、情報を選択し、判断し、決断や行動を起こす。
言わば、人間は、学習というプログラムをされた2足歩行ロボットに過ぎない。
つまり過去の学習内容に支配された人格が、その後の行動を制限する。
そしてその範囲は、人生全般に及ぶ。
プログラムされた動作
個人にはそれぞれの感情や行動パターンや、癖、といったものがある。
これを個性や人格と呼ぶが、その起源は過去の学習である。
人間は生まれた瞬間から学習を始める。
そして学習した内容はすべて人格の構成要素となり、その後の人生の支柱となる。
人格は、プログラムされた価値観のとおりに動く。
本人にとって価値が高いものの優先順位を高くして、人生における決断をし続ける。
価値観とは、ものの価値だけではなく、正義や不正義などを含み、広範囲に及ぶ。
情報収集や決断は、意識的にポリシーに照らし合わせて行われているものもあるが、無意識的に行われている場合もある。
学習した内容によって人格が形成され、それをもとに人生経験を増やし、そこで学習した内容がさらに人格を強固なものにしていく。
人生とは、このサイクルの繰り返しである。
親からのプログラム
幼少期に作られた価値観、行動規範で、その後の人生での全てを判断している人がいる。
まるで、大人になってもいつまでも親の機嫌をとるような行動に支配されているかのようだ。
しかし、問題の性質上、本人がそれに気づいていない場合も多いのである。
人格の形成において、親からの影響が最も強い。
大人になっても、親が死んでも親の機嫌を取る行動をとり続けているケースが多いのは、親の意志が本人の意思に同化してしまっているほど影響が強いからだ。
生まれたばかりの子供にとって親の機嫌をとることは、生命維持に直結する課題だ。
だから必死に親の機嫌を取ろうとし、必死に親の価値観を自分にインストールしようと努力する。
無力な自分を生存させるために。
この親依存の姿勢は、例えば好き・嫌いという価値観に表れることがある。
例えば、親の野球好きが子に伝染している場合。
親が野球を好きだった場合、子にもそれを好きになってほしいので、親が無意識のうちにそのように教育している。
子は親の機嫌を取るために、それを好きであるかのように振る舞うと親が喜ぶので、生命維持の観点から安心を得ることができ、それ以降も親の機嫌を取るために「野球好き」を自らプログラムしていた可能性が考えられる。
親が子供の人格形成に影響を与え、子はその人格で人生を生きることになる。
親は自分の子供の人格と人生を無自覚に影響を与えている。
その親はさらにその親から教育をされたのであり、その子もさらに子供に同じく接するようになる。こうして価値観の連鎖は続いていく。
外界からのプログラム
・学校での刷り込み
富国強兵時代に導入された教育システムは、徹底的に個性を排除してしまった。
教育の現場では、円滑な集団行動のため、本人の意思よりも他者との調和を教えられる。
これが偏重すると各個人の個性を排除した平等思想となり、「みんな同じ」という事実と反する常識が刷り込まれていく。
個性があるにもかかわらず、押し付けられる平等思想は、学業やスポーツの成績上位を目標にさせられ、その結果、成績が劣るものを努力不足と非難したりする。
この個人別の相対評価ではなく、絶対評価する姿勢は、社会人になっても抜けていない。
・メディアによる刷り込み
自分の意見を持たずにテレビや新聞の情報に接すると、そのメディアの主張を受け入れてしまう。
とにかく現代の日本には左翼思想に傾いている例が多く、自虐史観に基づいた主張が目につく。
この歴史は長く、政界、官僚、メディア、教育界にまで浸透しており、日本や政治についての議論は、日本を蔑むものばかりだ。
メディアの情報に触れる時間は意外に多く、信頼できる情報源がすべて日本蔑視であれば、日本人としての誇りを持てない。これも無視できない人格形成に関する問題である。
自分からのプログラム
親や外界からの刷り込みは強力なプログラミングだが、これにより身に付けた価値観をもとに経験を積み、そこで学習した内容が自分像をさらに強固にしていくという、フィードバックが常に行われていることも忘れてはいけない。
自分への思い込みは、善悪の判断関係なく影響する。
自分はこういう人間だ。こういう性格だ。という自己認識が、自分の行動にも影響し続けている。
例えば、自分はこういうものが好きだ、得意だという思い込みをもち、それに打ち込むと、それに接する時間が増え、知識も増え、時には指導が入り、スキルは伸びていくだろう。
逆に、俺は○○が苦手だ、という自覚があると、これを遠ざける人生の選択をし続け、苦手意識を克服する機会をなくし、本当に苦手になってしまうように。
思い込みは、事実上人生の選択の幅を狭めてしまうが、ある程度は必要である。
むしろそのように狭めていかなければ、膨大な選択肢を前にしたとき判断に迷ってしまうからだ。
ある程度は趣味趣向、向き不向きは把握しておく必要はある。
プログラムされた価値観の書き換えの難しさ
ここまでプログラムされた価値観は、過去の学習によると述べてきたが、実際は、学習などという生易しい表現ではない。
スイッチのようなものだ。しかも本人にはスイッチを入れた意識が無い。
いつ入ったのかもわからない。
性格の改善や矯正にはそのスイッチをオフにしなければならないが、そんなスイッチを入れた覚えがない。
この無自覚が問題を難しくする。
自覚ができなければ、見えないし理解できない。課題を認識できない。
性格の矯正の難しさ、や代々続く子供への虐待がなくならないのは、このように問題が潜在的だからである。
本当の自分の意志はあるのか
もちろんこのプロセスは、本人の意思によるものであるが、その意思は過去の学習内容が基礎になっている。
そしてその学習内容が他者によるものであれば、いったい本人の意思というものはどこにあるのだろうか。
ときどき、あまりに自分の意志が欠落している人を見かける。
親の意志、社会の常識という絶対的な価値観に基づき発言しているので、個人の意思が感じられない、説得力のない言葉になる。
彼らや我々に、本当の自分の意志はあるのだろうか。
それは他者から刷り込まれた価値観、プログラムに過ぎないのではないか。
そして我々はプログラムに支配されていて、そこから抜け出せないのではないか。
あまりにもプログラムされた内容に従いすぎてはいないだろうか。
正義や常識の名において、自分や他人をあまりに切り捨てたり、その価値観を押し付け、行動の範囲、選択の範囲を狭めていないだろうか。
むろん我々は、機械に作られた機械ではない。
自分で情報を仕入れ、自分で判断し、行動を起こすことができる。
しかし、あまりにもこの当たり前のプロセスが自分の意志は反映されていないのではないだろうか。
もっと自由に生きることはできないのだろうか。
人生の流れを変える
この瞬間も個性に基づき情報を仕入れ、目標の実現に向けて生きている。
そしてその過程で得られた経験が、個性や目標を強固なものにしている。
しかし、この流れは変えられないのだろうか。
今見えている未来がもし悲観的なもので、変えたいと願うのならば、今からプログラムを書き換えていこう。
電車がレールを切り替えるように。
その決意をした瞬間から、入ってくる情報はこれまでと質が変わっていく。
そしてその中で新しい目標により近づける情報を選別し、これまでとは異なる新鮮な判断をするのだ。
こうして経験した内容が、新しい個性を再構築し、新しい目標に近づけていく。
新しいプログラムに書き換わった瞬間だ。
まとめ
過去の学習によって現在の自分が構成されているのなら、今後の人生の構築も意識的にできるはずだ。
つまり目標に向かってそれが実現できる材料をどんどん学習、経験していけばいいのだ。
プログラムされているという考え方は、悲観的な見方だけではない。
自分の意志でプログラムを書き換えることができるという積極的な姿勢を取ることができる。
前向きに解釈することだ。
生きていく上で最も大切なことは、自分の意志を持ち、自分で目標を立て、それに向かって努力していくことだ。
その過程での経験全てが人生の醍醐味というものだろう。