人間は人間が作った社会の中で人生を送る。
その社会の構造は複雑で様々なゆがみや矛盾を含む。人生もまた同様である。
人生には様々なイベントが発生する。
そのあまりに複雑な状況を整理できないままに行動を起こすと、得られる結果は、満足できないものになる。
状況がどんなに複雑でも、大まかな流れを見抜き、課題の本質を突いた対応でなければ、
問題が再発したり、予想外の結果に振り回されることになる。
逆に、その状況の複雑さに圧倒され放置したままでは、状況は時間の経過とともにさらに複雑化、あるいは悪化し、さらに対応は難しくなる。
しかし、現実には課題の本質を見抜くことは難しい。
しかも課題は思いもよらないタイミングでやってくる。
それでも我々は、限られた条件の中で可能な限りベストな結果をつかまねばならない。
我々は冷静さを失ってはいけない。
どんなに目の前の事態が複雑なものであっても、最適解を求め、冷静に対応する努力が必要である。
目次
人生に起こるすべての出来事は応用問題である
人は一人で生きていけないと言われるように、どんなに細分化された事象も必ず何か別の事象に連動しており、全体として社会を動かしている。
事実上、独立した事象など存在しない。
必ず何か別の事象と連動し、影響を与え合っている。
このため、目の前の課題に取りかかろうと考えても、連動する他の事象にも目配りせざるを得ない。
しかも、これに時間という要素が介入してくる。
あらゆる事象は常に変化している。
事象の変化は、連動する他の事象にも変化を与え続ける。
こうして、目の前の課題に取りかかっている間にも、別の課題が発生するという状況が発生する。
以上のように、人生において発生する出来事はすべて、
ひとつのように見えても複数の事象が関連する応用問題なのである。
シンプル化の重要性
事実上課題の解決にはシンプル化をせざるを得ない。
なぜなら、どんな事象を完璧に把握しようとしても情報は発散していく。
どこかで区切りをつけなければならない。
物事は、複雑にするのは簡単であり、単純にするのは難しい。
課題発生の状況は複数の事象が絡んでいるので、冷静にひとつひとつ分解して全体を整理する必要がある。
この状況の把握の段階で、状況を整理できない人に課題の解決はできない。
応用問題を解くにはそれを構成する基本の要素が理解できていなければならない。
これをシンプルに捉えることができるかの勝負である。
シンプル化できる人、できない人
複雑な事態も、解決に向けて行動を起こせる人がいる。
彼らはどんなに複雑でもそれに惑わされず、事象を支配する核心部分を引き出す着眼点がある。
こうしてシンプル化されたモデルが、課題の解決へと導く。
一方、状況を整理できない人もいる。
すると、状況は停滞したままであったり、状況を理解できないまま飛び込むことになる。
これでは効率的な課題解決にはならない。
勢いだけで行動を起こしても、それが状況を把握したものでなければ、解決の行動は、遠回りになっていたり、悪化させていたりする。
また、状況を整理できていない人は、状況の説明は冗長なものになる。
説明しているつもりでもそれは状況の羅列になってしまうのだ。
課題の単純化に失敗していることを示している。
状況の単純化には、その人なりの着眼点が試される。
どの情報を優先し、どの情報を捨てるか。
この情報の取捨選択基準や状況に照らし合わせた物事の優先順位に、その人の経験やセンスが現れているのである
例えば野球の場合、優れたコーチは素人の素振りを見てどこを治すべきか見抜く力を持っている。
人の体は非常に複雑だ。筋肉と骨格は複雑に連動している。
しかし、望ましいフォームを実現するための、原因と対策を見抜き、ここを指導するのである。
全体を総合的に判断する
課題の解決には完璧な結果を得ようとしてしまいがちだが、状況が複雑であるほど妥協が必要だ。
状況を総合的に判断したとき、すべての構成要素に対し満足させることはできない。
目の前の課題に対して最適解を導き出したとしても、全体を総合的に見た場合、全体にとっての最適解とは限らない。
さらに、次にやってくる課題に対して良い影響を与えるとも限らない。
それは視野が狭く、短期的なものの見方に立ったものでしかないからだ。
可能な限り総合的な判断を行うためには、広い視野が必要だ。
目の前の課題に対し集中することは必要だが、実は全体を総合的に見ることの方が必要なのである。
シンプル化の弊害
複雑な課題をシンプル化することによって、当然省略された部分が発生する。
この省略された部分についての扱いが、いわゆる「仕事ができる人」と「仕事ができない人」に分ける。
・省略された部分のカバリング
仕事ができる人は、単純化する過程で省略した部分を完全には捨てていない。
頭の片隅に置いたままにしている。
だから、得られた結果がシンプル化されたモデルからかけ離れたものであっても、動揺しない。
省略された部分を再度引っ張って総合的に再度検討する。
シンプル化モデル自体の不完全さも自覚できているからこそ、このような対応を可能にしている。
しばしば、省略した部分についての認識が、発信者と受信者の間で共有しきれておらず、問題が発生する。
しかし、仕事ができる人はシンプル化の過程と、シンプル化の際に生じた省略の部分の必要性を理解できており、発信者と暗黙の了解ができている。
このためコミュニケーションエラーが発生しないのだ。
思考停止に注意
テレビのワイドショー含め、新聞などの各種メディアによる報道による、
その恐ろしく浅はかな考察とひどく単純な結論に、うんざりしている人は多いだろう。
課題の解決には、複雑な系のシンプル化が重要だ。
原因を追究するプロセスに深い考察と鋭い視点が無ければ、導き出される結論は空虚なものになる。
しかし、人は思考停止状態になると、結論に至るプロセスをスキップしてしまう。
結論を得ようと焦るあまりに、印象論に飛びついたり、そのような論調に同調してしまうのだ。
・なぜ印象に飛びつくのか
社会と人間に起こる出来事は、様々な要素が複雑に入り組んでいる。
そして、その状況を理解するには、非常に手間がかかる。
その理解に至るまでの心理状態は、地に足のつかない不安定な状態で、このザワザワする気持ちから解放されたい一心で、とにかく結論を急ぐ。
そして、自分で見つけたり他者から教えられる結論が自分の思い込みに合致するものであると、その結論に飛びついてしまう。
この時、結論に至るプロセスの説得力および納得性は軽視されがちで、単純明確な図式を障害なく受け入れてしまう。
結論に至るもっと楽な方法として、社会で流行しているものをそのまま受け入れ、「これが社会の常識である」と、思い込むケースもある。
例えば、収入が少なく将来を悲観したとき、テレビや新聞に出てくる「現政権の経済政策の○○の部分が間違っている。」という言説に、
飛びついてしまう。本当は自分の努力不足かもしれないのに。
しかし、ここで得られるのは一時的で些細な、個人的満足感でしかない。
同じくらい重要なことがある。
こうして得られた飛躍した空虚な結論を受け取るだけでなく、発信することも控えなければならない。
こうした思考停止は、的外れな結論を生み、課題解決を遠ざける。
パニックになりそうでも、踏みとどまって思考を続けることが大切である。
シンプルに考える方法①冷静さを失わない
我々は課題に向き合うとき、冷静に対応しなければならない。
冷静さを失うと、思考は停止または暴走し、まともな解決に至らない。
パニックにならないことである。
冷静に問題と向き合い、問題がどのような要素で構成されているか大別できること。
どのように絡み合い、複雑になっているのか理解すること。
状況の理解ができれば、改善策はおのずと浮かんでくるものだ。
シンプルに考える方法②大局的に捉える
状況の詳細に過度にこだわることなく、状況を俯瞰して大局的に捉え、
最も矛盾の少ないストーリーを作ることが大切である。
本質を見抜けなければ、情報に踊らされることになる。
状況を示すデータを収集したり、必要に応じて深堀りするのは、とても大切な工程である。
しかし、それが目的ではないし、むしろ本質を見失った者にとって、大量のデータは混乱を招く。
まずは、大枠で事象をとらえ、そこから個別の状況に対する分析を行う。
この順番が逆になると路頭に迷うことになる。
●参考リンク:勝ち組の必要条件│状況を俯瞰的に見る4つの方法
シンプルに考える方法③細分化する
事実上、社会はこの細分化を採用している。
どんな組織もその構成員は、分担された役割を持つ。
全員がすべての仕事を行っているわけではなく、○○事業部、○○課、○○係などのように、
大きな目的の達成のために、実現の手段を細分化している。
これは目の前の課題に対しても同様だ。
可能な限り事象を細分化していけば、ひとつひとつの要素に分けられる。
そして要素ごとに目指すべき目標はおのずと見えてくるはずだ。
・学校で勉強する意味
我々は義務教育の期間中、さかんに考えていたはずだ。
「なぜ勉強しなければならないのか。」
「この勉強は社会に出て役に立つのか。」
これらの疑問は解決されることなく、モヤモヤを抱えながら勉強しただろう。
しかし、答えは出ている。
「なぜ勉強しなければならないのか。」
その答えは、将来、社会に出て直面する課題を解決するためである。
社会で直面する課題というものは、複雑な状況を抱えている。
しかし、どんなに複雑でも細分化していけば、一つ一つの課題に単純化される。
そこまで単純化されれば、課題の解決に必要な行動も単純なものになる。
その単純な行動の積み重ねが課題の解決への道なのだ。
そしてその単純な行動とそこに裏打ちされる知識は、すべて学校で勉強したことがあるものだ。
つまり、学校の勉強は社会で直面する課題を解決するための基礎を解決するためのものであり、
学校とはその訓練の場であったのだ。